坂城から屋代へと続く五一山脈縦走
長野県の北信エリアの南端、坂城町と隣接する千曲市。
ふたつの市町村を繋いで五一山脈と呼ばれる山並みが続く。
南端を坂城町の五里ヶ嶺、北端を千曲市の一重山とし、どちらも戦国時代の城跡となっている。
五里ヶ嶺の「五」と一重山の「一」で“ごいち”だというけれど、逆にして“イチゴ”の方がウケるんじゃないかと
五里ヶ嶺にはこの一帯を治めていた村上義清の居城、一重山には村上氏の家臣だった屋代政国の城がある。
いくつもの峰を越えて縦走をすることができ、その尾根上には峠道があったり各所に鉄塔が建てられていたり。
縦走路とはいえ、街の音がすぐ近くに聞こえ里山らしいおだやかな雰囲気も感じられる。
縦走のスタートは坂城町の五里ヶ嶺から。
しなの鉄道坂城駅から歩いて10分ほどの場所に坂城神社があり、その裏に20台ほどが停められる専用の駐車場が設けられている。
車を停めて神社へ戻り、社地の裏から登山口へと入っていく。
はじめの数百メートル狭い舗装された急斜面を登っていく。
みるみるうちに坂城神社が低くなり、坂城の街並みが見えてくる。
数分ほどの登りで近道がある分岐に着いた。
なかなか急な登りだった
まっすぐに進むと姫城跡を経由して葛尾城跡へ。
近道は急斜面が続くものの尾根を直登するようにして葛尾城跡へ向かうことができ、300mほど距離が短い。
足元は細かな砂礫と枯葉が積もる。
滑りやすく、葉の下に段差が隠れた歩きづらさで、細かく折り返しながら急斜面を高く登っていく。
春山らしい感じの枯葉
木々の合間から見える街並みはかなり低く見えるようになり、坂城の南側にある虚空蔵山の向こうには、いまにも上田市街が見えそうだった。
折り返しが続き尾根の先端部に出ると、広くまっすぐに登る斜面に出た。
周りには立ち入り禁止の看板が多く見られる。
急斜面に松が多く生え、茸が生える山によく見られるような広く勾配のキツい急斜面。
足元には松の葉が多く落ちて真っ赤な色が登り坂が続く。
踏み跡は右へ左へと折れて登っていくものの、斜面はどこまでもまっすぐで、葛尾城に向かって一直線に続いて行く。
登りが厳しい
葛尾城趾
坂城神社から37分
坂城神社を出発して37分ほどで葛尾城趾に着いた。
戸倉町の磯部地区からの登山道と合流する地点で、姫城趾経由とあわせて3つの登山道が合流する。
南北の見晴らしが良く、きっと戦国時代においても居城とはいえ物見の役割が大きかったのだろうと想像をした。
西側には千曲川を挟んで冠着山が見え、反対側には小さな祠と、枝の間から五里ヶ嶺の山頂部が見えた。
なかなか山頂が遠い
祠の傍らに五里ヶ嶺へと登山道が続いて行く。
葛尾城の本丸跡から空堀へ下りるようとすると、斜面には雪が残り凍結していた。
油断をして滑り落ちるようなことのないように足元を確かめながら段差を下りる。
空堀の下に着くと、5mほどの高さの尾根へ登り返した。
尾根を少し歩いてまた空堀へと下りる。
階段が整備されていても踏面には凍結した雪が残り滑りやすさが際立つ。
いくつか空堀を越えながら、尾根を進んでいくと五里ヶ嶺への登りが近づいてきた。
10分ほどの切り立った尾根を過ぎると、広々とした林のような場所に出た。
本丸の規模や地形を思うと、1550年ぐらいの城といえば物見櫓みたいな役割だったのだろうな
これは・・・!!
浅い鞍部のような地形を緩やかに下りたあと、登山道の右脇に古びた電話ボックスのようなものを見た。
歴史を感じるような壊れ加減で、物々しさを感じるよう。
そこを過ぎるとすぐに駐車場が見えた。
葛尾城趾へもっとも近い場所の駐車場で、5台ほどが停められるスペースがあった。
積雪があるところを見ると、夏季のみに利用ができるのだろう。
たしか未舗装路でここまで車で登ってこれるはず
駐車場からは五里ヶ嶺の山頂部に向けて登り坂が続く。
木々に覆われて眺望も無く、ただひたすらに登っていく。
途中、鉄塔の真下を過ぎると磯部の登山口へと下りる分岐があり、そちらも積雪が残っているようだった。
登りの斜面は決して厳しい勾配ではないものの、単調で疲労感が湧いてくる。
ときどき足を停めながら、登りをながらを繰り返して10分ほど経つと、登山道にも雪が増えてきた。
太ももがパンパンしだしました
溶けて湿気を含んだ雪は固く締まると滑りやすく、ソールが埋まらない分、踏み込むのが難しい。
前方上部に山らしい影が見えなくなっているので、山頂は近いだろうと思いながらもなかなかに辿り着かない。
地形図から、山頂に近づくと斜面がなだらかになることは事前に分かっていたつもりでも、そもそもなだらかな雪面で苦戦をしていたために、まったく楽になる様子も無かった。
キツい登りではないと思うのだけど、体がキツいと言っている
唐突に登り坂が平坦になり、林の向こうに丘のような盛り上がりが見えた。
踏み跡は違う方へ向かっているようにも見えるものの、それに従って進んでいくと福井地区からの登山道と合流し、山頂への登り坂に差し掛かった。
合流地点が多い感じがしたので、きっといっぱい登山道があるのだろうな
五里ヶ嶺の山頂
坂城神社から1時間19分
坂城神社をスタートして1時間19分、五里ヶ嶺の山頂に着いた。
登山口からは700mほどの高低差、ひんやりとした風が吹いている。
西側には冠着山の尖った山頂部が見え、長野市街から見慣れた丸みのある形ではなく新鮮だった。
冠着山がカッコイイ
予定では五里ヶ嶺から北方へ縦走し、山脈の北端にあたる一重山まで向かう。
ただ山頂部から見える一重山は遥かに遠く、枝の合間から見える山が、本当に一重山なのかも怪しいほど。
下山したい時間も決めているために、迷っている間にもタイムリミットは迫ってくる。
手早く下りるのなら五里ヶ嶺で引き返すのが得策で、山頂で迷う時間ばかりが過ぎてゆく。
帰りたい・・・
10分ほど五里ヶ嶺に留まって迷った後、行けるところまで行くことができれば途中で下りても良いと思い、縦走路の先へと向かうことにした。
五里ヶ嶺からの縦走路は、まずは天狗山へ向かう。
山頂直下はロープが張られているほどに急勾配の下りで、雪が無ければ足を滑らせてしまいそうなほど。
積雪に足を差し込んでブレーキを掛けやすい状態ではあるものの、葛尾城趾のように凍結をしていたら、まず下りることはできなかった。
なかなか物凄い下りだった
雪のある下り坂は歩きやすかった
一気に斜面を下りながら標高を下げていくと、積雪も急激に少なくなっていく。
それでも膝下ほどの積雪があり、雪面を散らかすように足跡が付いている。
都合良く足跡を踏みながら斜面を下り続けて五里ヶ嶺から10分ほど、勘助道と書かれた看板を目にした。
戦国時代、武田方の山本勘助が軍勢を連れて歩いた道だという。
なだらかになった山の中を下りていくと、福井地区へ下りるという看板が建っていた。
踏み跡はあるような無いような、はっきりしない様子だった。
ここは迷わないで歩ける道なのかな?
下りきると登り返しになり、眺望のない森の中を過ぎていく。
どこかに天狗山があり、そこが縦走路の2つ目の峰になるはずで、ただ目印もなく登り返しが終わったら平坦に変わって下っていく。
たぶんこれだろうな??と思う感じ
ひたすらに下りと登り返しが繰り返される登山道。
国道や街が近いせいか車が通る音はよく聞こえるものの、身近なところしか見える景色もない。
事前に調べていたコースの情報から、いくつもの小さな山を越えることは知っていたが、それがどこなのかも分からないほど。
いま越えた丘のようなものが山名を持つ山なのか、ただの登り坂だったのか。
五里ヶ嶺付近で多かった松の木は、天狗山、北山と下りてきて杉が目立つように変わった。
街から近く送電線などの鉄塔が多く建っていることもあり、植林や林業の手が入っているのだろう。
長生山まできて、ようやく山名が書かれているのを見つけた。
木に掛けられた小さな札に、マジックで掠れた文字が書かれていた。
読みづらい
長生山までくると、木々の間から千曲市森地区が見下ろせる。
一面に杏が咲くことで知られている森が、すぐ間近に見えるということは森将軍塚が近く、ゴールの屋代も近いだろうと思えた。
長く終わりがこない縦走路は、意外にも早くゴールができるのではないかと期待した。
麓の街が見えた!!早い!
長生山の山頂から麓が見えてからすぐ、登山道が鉄塔の真下を通りかかった。
敷設や電線の関係で木々が伐採され、その付近だけ眺望が良くなっていた。
眼下に見えるのは戸倉町、冠着山は角度を変え、北アルプスは白く霞んでいた。
杉が多かった周囲はいつの間にか、松やそれ以外の木々に代わり、これまで以上に陽当たりが良い。
標高を下げたこともあって登山道上にはほとんど雪が見られない。
フカフカとした落ち葉の上を調子良く下りていく。
大山祇神社の祠を過ぎると、宮坂峠までは間近になった。
けっこう順調な道のりなんじゃないか?
宮坂峠
坂城神社から2時間24分
宮坂峠は五一山脈を跨いで戸倉町と森を繋ぐ。
この峠道を使って縦走をすることもでき、逆に縦走路のエスケープルートとしても設定できる。
五里ヶ嶺と一重山の中間地点といえる位置。
麓の街が見えてゴールが近いと思ったら、何気にまだ先が長いという落とし穴的な位置でもある。
記憶ではここが中間地点だったと思う。
けれど景色を見ると、もう終わりが近い感じがして、、、
山の中にアスファルトの道路が見えて、ひとの手を感じる安心感と、自然の中に人工物を見た残念さとを感じながら、道路を横断して縦走路へと入っていく。
建てられた看板には一重山・森将軍塚・有明山の3つの山名。
まだ距離が長く、高い峰があることを感じさせないところが罠に思える。
登山道の尾根の上を歩くと、徐々に登り坂に差し掛かっていく。
急激な高さはなく、街が近く終わりが近いかもしれないという気持ちの余裕もあり一気に登りきる。
なんの目印もないものの、位置的には護兵山と思われる。
伐採された木々や枯れた草木が登山道を覆っていて歩きづらさがあるものの、登りが平坦になって歩みが捗る。
左側には北アルプスが見え、右側からは上信越道の車が走っていく音が大きく響いている。
緩やかに下りながら、目の前には高い峰が見えてきた。
おそらくは大月峰。
高低差にして30・40mほど、緩やかながらも連続する登り返しに太ももが痙り始めてきた。
登り切ったところは丸みを帯びたおだやかなところだった。
木に札が括り付けてあり、おそらくは山名が書かれているのだろうけれど、読むことができなかった。
登った先は緩やかな尾根道で、ゆっくりと標高を下げていく。
下ったらまた緩やかに登り、宮坂峠と有明山を指した看板を見つけた。
他に目立ったものは見当たらないものの、この一帯が久保峰だと思われる。
いったい有明山はどこなんだ?
松枯れが酷い
平坦な尾根道はしばらく続き、周囲の松も疎らになってきた。
よく見れば松が枯れているところも多く、地面近くには背の低い松が育っているものの、松食い虫の影響ではないかと思えた。
木々が枯れるのは歓迎できないものの、おかげで周囲を見渡す眺望が得られ、振り返ると五里ヶ嶺が遠く見える。
眼下には五里ヶ嶺トンネルを抜けた上信越道。
登山道は尾根道から登りに差し掛かり、九十九折りに次の峰へ向かって登り返していく。
有明山
五里ヶ嶺から約2時間
有明山に着いたのは、五里ヶ嶺から約2時間ほどだった。
ここまで時間的には意外と早かったと思え、体力的には消耗したと思えた。
広く、大勢で座るにも余裕があるほど。
おもわず弁当でも広げたくなる長閑さだった。
ここは遠足的にやってきても良いんじゃないか?
有明山からはひたすらに下りが続く。
陽当たりがよく落ち葉の積もった長閑な下りのつもりでいた。
それが日影に入ると、硬く締まった雪が残り、落ち葉の下が凍結し見えないところで大いに滑る。
登山道の傍らにロープが張ってあるのが、まるで凍結時に使うためのように思えるほど。
こんなに凍って・・・ダメだろ・・・
なんとか日影の凍結ゾーンを下り、有明山から10分ほど下りたところで、森将軍塚と有明山将軍塚との分岐に着いた。
どっちに向かうか一瞬考え、有明山将軍塚へ足を向け、歩き始めたところで森将軍塚方向が通行止めになっているのを見つけた。
迷ったところで向かう先は有明山将軍塚だった。
森将軍塚も行ってみたかったのだけど
有明山将軍塚は分岐からすぐ。
見ようによっては前方後円墳のようにも見えるし、知らなければそういった地形だったとも見える。
立て看板によれば、4・5世紀に作られたもので、埋蔵品のほとんどは盗掘されていたという。
北陸新幹線のトンネルがすぐ近くを通るため、新幹線が通りかかるたびに大きな音が聞こえ、ものすごい速さでカッコの良い車体が過ぎていく。
新幹線のベストビューポイントがあるんじゃないか?と思ったけど、枝葉が邪魔だね。このあたり。
一重山
有明山将軍塚からは一気に標高を下げる。
九十九折りの登山道を下り、低く見えていた屋代の街並みがすぐ近くに見えてくる。
しなの鉄道の屋代駅が眼下に見えると、一重山は登らなくても良いんじゃないかとすら思えてくる。
もう終わりにして良い?
九十九折りの下りの先は、東山神社の裏手だった。
石段を下りれば駅が間近になるという誘惑を思いながら、一重山のほうへと歩いていく。
矢印や看板もなく一重山と思われる山影に向かうと墓地や貯水槽が近づき、果たしてここを歩いて登ることができるのかと不安が募る。
山に歩いていったものの、登山口は別のところだとしたら・・・という。
五一山脈とか名前を付けるくらいなんだから矢印ぐらい欲しい
ここか!!?
墓地を過ぎて、覗くように貯水槽の裏側へ回り込むと、登山口のような看板が建っているのが見えた。
それが一重山と屋代城趾の入口だと思い、安心して入っていくことができた。
登山道は急な斜面の九十九折り。
下りを長く歩いてきた太ももに、ここでの登り坂は厳しい。
僅かな高低差と距離、5分ほど掛けてやっと登ることができた。
やっと・・・
一重山の山頂部は広く平らになっている、
雛壇上の腰曲輪という説明書きがあり、この広さは削って作られたものだと知った。
山頂を下りると、たしかに段差を繰り返した形状で階段や平坦な場所が多かった。
8分ほど歩いて矢代神社を通ると、石段やコンクリートの地面に変わった。
矢代神社の下には成田山があり、鐘楼を見上げながら石段を下りた。
五一山脈の縦走路は、五里ヶ嶺から3時間半以上掛けて、やっと下りてくることができた。
村上義清の葛尾城から、屋代政国の屋代城までを歩く縦走路は、戦国時代にも歩かれたであろう尾根道を辿ることができ、そう思うと感慨深いものだった。
きっと武田氏に敗れた村上氏は、この尾根を敗走して、辿り着いた一重山の屋代城で頼れず、、、なんて状況だったのかな??と想像した