春日山城へ登る大手道
戦国史のファンでなくても、上杉謙信の名前くらいは聞いたことがあるだろう。
新潟県の上越市一帯から始まり、関東や北陸まで広く影響を及ぼし、武名は広く知れ渡っていた戦国時代の武将。
長野市川中島で行われた武田信玄との5度の合戦はよく知られている。
山岳エリアとしては妙高山や火打山といった百名山が並ぶ頸城山塊を間近に望み、日本海の海岸線をなぞった北側には米山が大きく見える。
すぐ近くに長野の県境があり、西側には信越トレイルが続く関田山脈が見える。
海も山も近く、その両方を見ることができる春日山に上杉謙信の居城があった。
春日山城って全国区で知られていると思ってる
春日山城の大手道入口がある。
近くには広い駐車場と、御前清水が湧いている。
上杉謙信が出陣の際に飲んだと言われているそうで、見ていると水を汲みに来るひとがいた。
あまり清水感がないような気もする
駐車場から50mほど下ったところに大手道の入口がある。
道の傍らに標識が建ち、観光地などでよく見かける歴史の案内が書かれていた。
これか!?
史跡春日山城趾と書かれた石標の両側には、枯草の空き地のような畑。
ここから城跡に繋がるとは思えないような、長閑な雰囲気の砂利道が続いている。
大手道という城郭の正面入口とは思えないような、何もないといった雰囲気で道が続いている。
この道の先に山城らしい高さも見えない。
城といえば幅が広くて蹴上げの小さい階段
3分ほど砂利道を歩くと、緩やかな登り坂に階段の分岐があった。
踏面が広く蹴上げの低い、公園などでよく見るような歩きやすい階段。
綺麗に整備されているものの道の両脇には森が広がり、苔が生して湿った地面が滑りそうな雰囲気がある。
10分ほど登ると森の中の階段から景色が開けた。
田んぼかと思うような草原は番所の跡地。
高く土が盛られているのは土塁の跡で、そこには木戸が作られていたという。
盛り土の上にあった?盛り土の横?
コンクリートの道に沿って登っていくと、大きな木々の立ち並ぶ分岐に出た。
どちらへ進んでも行き着くところは同じで、好みで足元を選ぶような雰囲気。
コンクリートを踏みたいか、土を踏みたいかといったところで、今回は階段が作られた土の道へ進んだ。
戦国時代の趣なのか、時代が進んで草だらけになったのか・・・
階段の両側が高く、深い壕の中を歩くよう。
緑が深く、鬱蒼とした雰囲気が漂う。
さきほどの分岐で大手道から外れたのではないかと思うほど。
狭い道にすることで、大軍が長く細い行列になることで守りやすく作られたのだろう。
この先、城跡が近づくと景色が開けることは分かっているものの、ここだけを歩いていると本格的に山の中へと入っていくようにも感じられた。
入口から24分ほど、南三の丸の跡地に出た。
方向を指す標識も建っており、あの盛り土の間を通る狭い道は、古くからの大手道だったと知った。
南三の丸は権現堂と本丸への分岐。
権現堂へ行って戻れば良いだけのことではあるが、今回は本丸だけが興味の対象だったため、権現堂は気にも留めずに先へ。
南三の丸から本丸までは500mほど。
正直なところ、本丸だけが見たい
また高い土の壁に挟まれた狭い道を歩く。 ただ南三の丸の手前のような鬱蒼とした雰囲気は無く、明るく陽が差し込む。
5分ほど歩くと柿崎屋敷に出た。
柿崎氏といえば、謙信の時代に武勇で名を馳せた柿崎景家が有名。
本丸から近い場所に館が許されているところに、柿崎景家の武功や忠誠が伺える。
案内板によると、春日山城で最も大きな郭で、池か水堀があったと考えられていたという。
東側の眺望が開け、上越市内の眺望が良い。
ここから城下の様子を見渡すことができたのだろう。
上杉謙信の家臣といえば柿崎景家は欠かせないから、やっぱりこういう場所に館があるんだろうな
柿崎屋敷から本丸の直下、春日山神社まで御成街道が続いている。
1560年ごろに関白の近衛前嗣が謙信を頼って滞在した際に、この道を通ったのが由来という。
傾斜のなだらかな道で、この御成街道の真上に上杉景勝の屋敷跡がある。
柿崎屋敷から数分で、景勝の屋敷跡に登った。
上杉謙信の死後、跡目争いに勝って家督を継いだ上杉景勝は、豊臣氏の五大老のひとりであり江戸時代の米沢藩の藩祖でもある。
「愛」の一文字を冠した兜を持つ直江兼続の主君であることでも知られている。
なぜだろう?柿崎を見た後だと景勝はイマイチ興味が沸かない
上杉景勝屋敷と本丸の間は空堀があり、その斜面にある階段を登ると井戸曲輪に出る。
階段を登り切った近くに大きな井戸が空いており、覗き込むと水面が見えた。
山頂に近い場所で水が湧き出るとは思えないので、雨水などを溜めて井戸としていたのではないかと思い、覗いて見ていた。
井戸曲輪から階段を登ると、春日山の山頂部にある本丸の跡地に到着した。
着いた
春日山山頂
春日山の山頂にあるのは本丸の跡と天守台跡。
案内板には「春日山城の『お天上』と呼ばれたところ」だという。
柿崎屋敷よりも高い分だけ眺めが良く、さらに木々も刈り払われているために遠くまで見渡すことができる。
市街を流れる関川や直江津港、その先には米山が大きく見える。
本丸址から南側の天守跡へ歩くと、火打山や焼山などの山々が多く見える。
中でも頸城駒ヶ岳付近の荒々しい峰が並ぶ眺めが印象的だった。
マジマジと景色を見た記憶がなくて、わりと新鮮な思いで眺めてました
本丸跡から見下ろしていると、散歩のように登ってくる人も多い。
高低差がちょうどよく、街からの距離も手ごろで、気軽に訪れることができるのだろう。
くわえての眺めの良さなので、身近に春日山のような山があれば、登る頻度も高そうだ。
下山
本丸と天守の跡からの眺望に満足し、春日山神社へ向かって下りることにした。
山の形を階段上に削り、山頂部の天守、その直下には護摩堂などの建築物を作り、南北に重臣の屋敷を置くという配置。
山頂から一望する街の様子も、この一帯を治める居城らしい趣だった。
本丸の一段下、北側には護摩堂の跡地がある。
上杉謙信といえば毘沙門天を祀り、戦の前には毘沙門堂に籠もったことが知られている。
護摩焚きを行ったのが場所がここだという。
周囲に生えている木々が疎らのため、上越の市街地だけではなく、西側も見渡せそうに思えるものの、山と森以外には何も見えなかった。
護摩堂からの毘沙門堂っていう流れは謙信の雰囲気バツグン
護摩堂を下りると毘沙門堂が建っている。
大きさは一間四方ほどの小さなもの。
中には50センチほどの毘沙門天が祀られている。
毘沙門堂を下りるとお花畑とされる場所があり、これが何のためのものだったのかと考えながら歩いていくと直江氏の館跡に出た。
直江氏は上杉謙信の父の代から仕え、上越市の直江津に名前を残している。
建物の跡を見ながら、山城の地形を楽しみ、短距離ながらも10分ほどの時間を掛けて下りてきた。
直江氏の屋敷跡の下には、サーキットのシケインのように90度に折れ曲がった虎口。
大手道のように大軍が攻めてきた場合に、突進する勢いを殺すために作られている。
このすぐ横には帯郭という斜面を平坦に削った一帯が続く。
重要な郭の防御施設として作られるもので、ここでは真上にある直江屋敷の周りを囲むように作られている。
ここから見上げる本丸がけっこう雰囲気がある感じ
この場所からはちょうど本丸を正面に見上げることができ、春日山城の趣に見入るには最も適した場所。
当時の建物が残っていなくても、地形を見て想像を膨らませるのは城郭跡を見る楽しみのひとつ。
周りには背の高い木々が茂り、足元には蹴上げの高い階段が続いている。
大手道と比べると、距離が長くなだらかな大手道と、急勾配で短距離の春日山神社といったところだった。
千貫門の跡地を横目に、階段を下りていくと春日山神社の正面に出た。
鳥居と社殿の中間に出て、小川未明の胸像と錆びた大鵬が置かれているのが目につく。
土産物屋も並び、静かな雰囲気だった大手道よりも、現在ではこちらのほうが正面入口のような雰囲気だった。
上杉謙信が有名だけど、それ以前の長尾為景から上杉景勝までの4代のことも偲びたい